世間の人は、お金を稼ぐために毎日行動しているが、自分は毎日考えることしかできない。
礼儀正しく過ごすというのは当たり前のこと。
世間の人は自分のことしか考えていないわけではない。
ただ、世間の人は自分のことを考えることが一番都合の良い事なのだと思う。
自分は場面緘黙症として、6年間過ごしてきた。
この6年間できるだけ回りに周りに迷惑をかけないようにと
必死に生きてきた。
その間に、自分は人と話さないできた。
6年間小中の周りの人からも関りを持つことは無かった。
この書き方だと甘えと思われて当然だろう。
この頃からすべてが真逆の思想になったと感じた。
今もそうだが、場面緘黙のような人が世間から否定される理由が分からない。
自分は周りに迷惑をかけないように必死に生きてきたし、自分の立ち位置を演じてきたと思う。
それでも迷惑というのは事実だし、何かが間違っているのではないかというのも考えた。
甘えというのも当然だろう。ただし前提が真逆だということを誰も理解してくれない。
人をまねしたいとも思った。ただそれも自分ではなく自分を考える必要があった。
周りになれないのなら自分を見つめて考える必要があるだろう。
周りと関りを持つことは無く、それがとにかく悲しいことだった。
これも真逆の思考の一つなのだと思う。
この真逆の思想というのはとても厄介なものだった。
全てのことにおいて周りに迷惑をかけてはいけないという考えから、自分はひきこもるようになってしまった。
そうすれば家族以外誰にも迷惑はかけないと思ったから。
そうであったとしても自分の中には、人と関りたいという矛盾した気持ちを場面緘黙症の始まった頃から持ち、社会集団にあこがれを抱いていた。
全てにおいて考えと前提が真逆で思考の相違が、物心ついたころから発生していた。
考えれば相手の正しさは分かるだろう。
僕の考えは世間一般よりも異常に多いのかもしれない。
ただその分ミスも多い。 思考が速い訳ではない。
場面緘黙を言い訳にするわけではないが、その場ですぐに考えれるわけではない。
世間の人は前から考えることはできてもすべて礼儀にとらわれた思考しかできない。
正しいのは自分の思考なのか世間の思考なのかどちらもなのかも分からない。
最初からすべてが真逆だった。
考えていること・前提が真逆になってしまう理由を考えた。
世間と考えていることがズレてしまう理由を考えた。
こんな感じの存在になってしまう理由が分からない。
どこで間違えたのかもわからない。
これらが自分の一日に考える思想のループだった。